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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
大阪朝日新聞 대판조일신문
  • 기사명
    明治28年 1月 8日
  • 이미지
    prd_0136_140 ~ prd_0136_143 (140 ~ 143쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년 12월 13일
일러두기

1月8日
●全羅道の東學黨
(廣島特派片山猪三次發)

大本營へ左の七日午前八時三十五分釜山發電報
八時四十五分を以て達したり(釜山特報參看)

本月初順天府光陽縣二村の役人及び人民より東
學黨の巨魁金仁倍、リウカトク、鄭虞炯以下を
殺して左水營に降伏し赦罪を請ふ筑波の分遣隊
は五日光陽に上陸して金仁倍、リウカトクの首
級を實見せり左水營の韓兵五百名順天府に赴け
り目下東學黨は首領を失
ひ四方に散亂せり

七日 黑岡筑波艦長

黃海の東學黨 黃海道の東學黨は甲起乙仆殆ん
ど端倪すべからざる有樣にて仁川兵站部は昨夜海
州に於る我征討隊よりの急電に接し直に彈丸三萬
發を小汽船にて送致したる由

東徒左水營を攻擊す 慶尙全羅兩道の東學黨は
▣や全羅道の順天府を本據とし猖獗至らざるなく
本道五十三管中羅州、雲峰、左水營の三管を除く
外皆東徒の蹂躪する所となり官吏となく人民とな
く悉く脅かされて賊に與みし其數幾萬と云ふ程に
達したり而して右三管中賊の全力を集めて攻擊し
つゝあるは左水營にて一勝一敗雙方必死となりて
對戰し居れり然れども賊は目に餘る大勢にて新手
を入れ易へ攻寄するに左水營は僅に限りある數百
の兵を以て重圍の裏に孤立することなれば其危き
こと累卵よりも甚しと云ふ賊の左水營を攻擊する
以前城將金澈圭氏外二名へ宛て相和し以て異類の
跋扈(我日本人を指す)を制すべしとの趣旨にて一
篇の書を送り甘言以て左水營を誘降せんとせしに
水營は之に應ぜず東徒を以て上國王の綸旨に戾り
下良民を虐ぐるの國賊なりとし假令百萬の黨類あ
りと雖も天誅日を期して待つべしとの意味を返信
せり東徒は之に激昂したる者の如く直ちに水營攻
擊の準備を整へ第一着手として城外五百餘の民家
を屠り客月十六日夕刻より愈よ攻擊を始め翌十七 日の日暮に至るまで凡そ二十四時間非常の激戰あ
り東徒は城兵の爲擊退せられ死傷六十名餘に及べ
り城兵は悉く之を城門に梟し其死體は海中に投
ぜりと云ふ(來電參看)

德陽里の戰 東徒は是に於て益激昂し去月十
九日順天の本軍より光陽の別隊に向ひ一步も退か
ず水營の兵と對戰し以て本軍の來るを待つべきを
令し本軍數萬は潮の湧くが如き勢ひにて順天の本
據を押出し光陽の兵と合し左水營に向つて前進せ
り是より先同地沿海に在りし我筑波艦は左水營の
急を聞き百餘名の陸戰隊を組織して上陸せしめ水
營の城兵を援けて東徒の襲擊に備へしむ廿一日東
徒水營附近の德陽里に來り一擧水營を屠らんとす
るの氣勢を示せり翌廿二日未明南海軍大尉、和田
海軍少尉は我陸戰隊を指揮し水營の韓兵二百五十
餘名を先鋒とし城將郭景煥をして之を率ゐしめ枚
を銜んで發足し德陽里の東徒を逆擊す賊は城兵の
攻め來るを見るや直ちに其背後に峙てる山巓(高
さ千四五百メートル)に馳せ登りて陣を取り銃を
放つて水營の兵と對戰す我陸戰隊は二手に分れ一
隊は直ちに賊の登りし山巓に向つて進擊し一隊は
初め賊の屯聚し居たる陣地を蹂躪したるまゝ又直
ちに山巓の賊を目指して進擊したるが賊は要地に
據り瞰下して發銃したるも我兵之を物ともせず已
に山腹まで攻め登りしを見彼等は▣遽山巓を下り
順天に向つて潰走す我兵之を追擊すること里餘に
して德陽里に歸陣したるが賊の一隊は健氣にも夜
中暗黑に乘じて我兵を襲擊せしに却つて散散に我
兵の爲に擊退せられたり是れより我兵及左水營の
兵は共に水營城內に引上げたり此日賊の死傷甚だ
多く又捕虜一人あり分捕品は大砲二門軍馬四頭牛
一頭大小軍旗▣流火藥彈丸數箱糧米▣十俵其他牛
豚、鷄、鷄卵等數多なり當日我筑波艦は順天府下
砂項里の東岸猫島の沖に在りて陸地の戰況を視察
し居りじが賊は火を德陽里の山野に放ち炎煙盛ん
に起り同地三四里の間は悉皆煙に鎖されて何の見
分けも付かず唯だ銃聲の豆を熬るが如く聞えしの
みにて其狀景中中に凄まじかりしといふ

東徒の首領 慶尙全羅兩道東徒の大總督卽ち彼
等の所謂嶺湖都領統と云ふ者は全州の全鳳俊と云 ふ者にて常に兩道軍隊の指揮を爲せる者卽ち彼等
の所謂嶺湖大義所統領は順天の金仁倍と云ふ者の
由にて德陽里大敗の時全鳳俊は己の鄕里たる全州
の金溝に逃げ歸へり金仁倍は敗兵を聚めて順天の
本據に引き上げたりと又右兩人の外に道儒と呼ぶ
東徒全體の顧問たり大先生たる者は忠淸道の崔時
亨にて東徒中にては絶對の地位と權力とを有せる
白髮の老人なりと云ふ

左水營攻擊の理由 全羅慶尙兩道の東徒が全力
を以て頻りに左水營を攻擊するは其原因を按ずる
に三條あり一は水營の節度使金澈圭氏が曾て東徒
數十名を殺せしことあるを以て此宿怨を▣さんと
し一は同營が厚く我日本漁民を保護し金鰲島、喇
叭島等に數多の日本漁民聚りて盛んに漁業を營み
居るを惡み一は左水營の順天、興陽、光陽、樂安、寶
城、長興其他七鎭を管轄し全羅道中第一の要所な
るを以てなり

左水營將官の洋裝 左水營の節度使金澈圭、正
領監李周會氏を始め其他の重立ちたる將官等は何
れより求めたるにや身に不似合の洋服を着し李氏
の如きは頭に朝鮮の冠を戴きて身には古びたる
フロツクコート樣のブタブタせる洋服を着し意氣
揚揚として軍隊を指揮し居るさま宛然一幅の好ボ
ンチたり是東徒をして日本人と見紛ひ恐怖せしめ
んためなりと、然るに何ぞ圖らん東徒は此體を見
て益激昂し妄りに先王の遺風を廢し徒らに倭奴
の蠻風に摸倣するものなりと罵り之れが爲め東徒
の水營攻擊も一層激烈となりしと云へり

網を投じて戎軒を事とす 唐の詩人が物せし如
く筆を投じて戎軒を事とするにはあらで網を投じ
て戎軒を事とすと云ふ次第は今度左水營にては東
徒の攻擊を防ぐが爲金鰲島、喇叭島等に居る我日
本漁民を雇ひ入れて兵士となし城內の韓兵に合し
て特の外心强く思ひ居る體なり又東徒は城內に日
本兵の守り居るとて大に警戒する模樣ありと

我軍艦の滯泊を懇請す 我筑波艦は永く左水營
近海に留まるを得ず○○○○を終はると共に去月
廿八日を以て水營を出發し同夜○○に入港せり水
營の各將官等は我軍艦の同地を去るに臨み黑岡
艦長に向ひ貴艦一たび去らば此城直ちに賊の屠る 所とならんあはれ尙ほ數日間是に滯泊ありたしと
懇請し又水營附近の韓民三百餘名は水營城門外
に於て黑岡艦長に謁し地に平伏し淚を垂れて一篇
の陳情書を捧呈し頻りに軍艦の滯留を哀願し艦長
にも不憫さ言ふばかりなかりしも已むを得ざる用
向あり一先水營を出發したるが不日再び同地に赴
くことあらんとの說あり

左水營の請援使 として同營金節度使の祕書官
沈誠澤氏は○○○に便乘して釜山に來り監理使秦
尙彦氏に面して左水營の急を告げ我守備兵の援助
と軍艦の再來とを同監理使より懇請ありたき旨依
賴せり就ては監理衙門警務所長朴琪淙氏は同夜(
去月廿九日)倉皇我領事館に來りて左水營危難
の次第を陳べ速に我兵の出張▣▣めらんことを
懇請し且つ軍隊は水路を取り韓船にて急行同地に
至らんことを請ひたるも司令官今橋少佐は東徒▣
蕩の方略上左水營の一局部に拘はりて大體の計
畫を變更するを得ず且不完全なる韓船にては途中
の事も多少懸念なきにあらずとて水路軍を送るこ
とを拒絶し翌三十日を以て陸路一中隊の兵を派遣
し鈴木大尉之を指揮せり而して右軍隊は本月六七
日頃全羅に入り直ちに東徒の根據たる順天を擊潰
せん豫定なりと云ふ

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