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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
大阪朝日新聞 대판조일신문
  • 기사명
    明治28年 1月 3日
  • 이미지
    prd_0136_136 ~ prd_0136_140 (136 ~ 140쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년 12월 08일
일러두기

明治28年(1895)
1月3日
●朝鮮近信
(仁川に於て靑山好惠郵送、長崎發)

井上公使より我政府に請求し居る改革費四百萬
圓を朝鮮政府に貸ず事の決定を得ん爲なる趣に
て鄭書記生今日歸朝の途に上る

國王陛下の眼疾次第に輕快なり

閔泳駿は北京か天津に在り▣確知せらふ
王妃殿下より閔泳駿への使者捕へられたり

全羅道五十三縣皆東學黨に歸し左
水營のみ獨立す討伐兵として我一中隊增遣せら
れたり

●全羅道の東學黨
(東京發)

昨日廣島來電に曰く全羅道の東徒は益猖獗に
して開南と稱する一の新王國を建設し金族 人
其王となり已に大臣以下を任命せるよしの說あ
りと釜山發の報に見えと

●又 (釜山桐畑又吉發)

全羅道の東徒猖獗其數幾萬なるを知らず到る處
官民皆之に與みし羅州、雲峯、左水營のみ未だ陷 らず東徒は順天を本據とし烈しく左水營を攻擊
し居れり我守備兵二百今朝全羅道に向け發遣せ
られたり

東學黨

時に燃し時に滅し、人をして蛆の腐體に生ずるか
の如く、人體と共に亡びざれば亡びずと言はしむ
るもの、實に朝鮮の東學黨とす、今日に及びて尙
ほ滅絶に至らざる彼れの頑牢も亦甚しいかな
東學黨の初めて蜂起せし事は十數年の前に在りし
なるべし、爾來黨勢漸次頑强となり、忠淸全羅の
二道は稱して其巢窟となす、而して彼等が仰で黨
祖とする所のものは、二十年前大院君攝政の頃、
天主敎者と誤認せられて斬罪に處せられたる崔福
成なるものなりといふ、彼等は之を無極大道大德
大先生と追號し、儒佛仙三道を折衷したる如き一
種の學派を構成し、役小角的奇幻の術を弄し得る
ものと信ずる無智輩少からずといふ、明治二十六
年二月上旬彼等の
我黨の邪道ならざる事を諭すべし
外敎者外商賈を撤去せしむべし
地方官の暴斂を罰すべし
の三條を以て、全羅道監司に訴へ來るもの四千餘
人、其後監司に訴ふるを迂とし同年三月直に漢城
府に押寄せたる決死の黨員一千人、其內更に朴升
▣等三十名を總代として王宮に表文を捧げ、三晝
二夜批答を待ちて退去せず、府民の動搖甚しく、
或は大院君、或は支那公使、或は露國、或は要路
大臣の中に援助する者ありなど稱し、韓廷は逡巡
空▣百計出づる所を知らず、捕盜廳の捕獲するも
の三百に及びしも、多くは其首魁を脫し、遂に死
刑に處するの前例をも履み得ずして、唯放逐した
るのみ、當時彼等が街衢に貼附したる諭示文を見
るに其中
名曰敬上帝、只以祈禱爲文、稱以信耶蘇、但以讚
美爲法、絶無正心誠意之學、少無踐言篤行之實、
曰孝敬父母、而生無供養承順之道、死無哭泣奔喪
之節、斯可謂彝倫之常歟、婚姻之俗、則初以野合、
終焉改嫁、少無愜意、則有休之弊、斯可謂夫婦之
道乎、
等の語あり、是れ耶蘇敎を痛斥して外人を▣▣す
べしとなすものなり又全羅監司に呈したる倭洋逐
斥の建議文を見るに 今倭洋之賊、入於心腹大亂極矣、試觀今日之國都、
竟是夷賊巢穴、……況乃倭賊反有悔恨之心、包
藏禍胎方肆厥毒、危在朝夕、
と維新當時の我國情に顧みれば深く咎むべからざ
るに似たり、只彼の爲めに速に開悟せしむるの道
を行ふは先進國の職分となす、四月に至りて尙靜
穩に歸せず、是
に於て英米公使
は韓廷に照會す
らく、速に鎭定
する能はずんば
請ふ防衛鎭壓の
勞を執らんかと、
流石の韓廷も
之れには應ぜざ
りき、直に支那
公使に協議せし
に、彼公使は平
然として我にし
て此に在り、東
徒憂ふるに足ら
んやと、所謂大
國的答辭に韓廷
爲に勢を得て示
威操練をなし、
苛酷の方針を執
て捕へ且殺さん
とし、仁川には
日英米淸諸國軍
艦の來りて準備
已に成りければ、
彼黨の氣焰又
揚らず、遂に退
去して一時殆ん
ど消滅の姿とな
れり、

然るに翌五日又
再擧の報あり、
魚允仲を忠淸全
羅の按撫使として急に發遣し、更に兵を水原に出
して忠淸道の首府に向はしむ、其下旬魚允仲鎭靜
の復命をなせしに、六月二日の夜再び警報あり、忠
淸道報恩を引拂ひたる黨員は他地方の黨員と合し
て慶尙道彦陽近邊に集まれり、旗幟には「掃除侫
臣二十八人、利國安民」と記せりといふ、當時閔趙
李の要路に立てるもの二十八人皆顔色なし、然も
大事に至らずして止みき、

大鳥公使歸朝

明治二十七年五月公使歸朝す、此時朝鮮の形狀は
如何なりしぞ、昨年十二月開城府內外數千の農民
一時に蜂起し、官吏を毆打し家屋を毁壞し、南大
門に據り其勢當るべからず、檄文あり數項の目
的を記す、中に「日本接生者家毁事」とあり、同
府滯住の我國人數名は辛うじて仁川に逃げ歸れり
府守交任して事定まると雖も、長湍府の暴擧、平
壤の民亂、或は咸鏡道の長津府、平安道の孟山、
忠淸道の江景到る處不穩の色あり、二十七年二月
開城府に於て一名の我國人は殺されたり、又釜山
近海に於て二名の漁夫殺さる、或は各所の火藥忽
然紛失し、番兵逃走して知るに由なしといひ、或
は太廟に火藥を塡めて國王大臣を一擊の下に粉碎
せんとしたるものあり、公使歸朝の日には東學黨 の三千餘人、全羅道古阜に起りて府使を始め官人
三十餘名を殺し、將に京城に上らんとする勢あり
き、此の趨勢を察すれば韓廷の薄弱殆んど極まる
を見るべく、而して小亂の必ずしも看過すべから
ざる導火線たらんことをも知り得べきにあらずや
而して公使の歸朝は此際に在りき、大鳥公使歸朝
す、吾社員神戶に訪問して其意見を聽く、其東學
黨に對する意見に曰く
予は本月四日京城を發程し、七日仁川を解纜し
たり、其際韓兵凡六百名、蒼龍號にて郡山(忠
淸、慶尙兩道の間にある一港)に向ひ仁川を
發途せり、騷擾の來りしは全羅道古阜とて、郡
山を距る廿里餘の處に在り、元來東學黨は在官
の閔黨に對し、又外國▣▣に本邦人に不平あ▣
一種の攘夷黨なるも、兵器の蓄とてはなく、烏
合の一團に止まるものなれば、出兵と共に事忽
ち鎭靜に歸すべきのみ
斯の如くにしてこそ歸朝するの餘地はありけれ、
然るに東學黨の勢焰日に益猛暴、鎭壓として差
遣せられたる官軍は戰はずして遁走し、忽ち大敗
に及びたれば、更に五百の兵勇を追派するに至れ
り、今回の暴徒は軍器も整ひ五百年にして革命あ
るべし、との豫言(李に代るもの鄭姓なるべしと
いふにありて慶尙道安東府の住人鄭哥なるものを
首領と仰げり)を信じて雷同するもの五六萬に達
したる勢なれば或は遂に君側の姦を除き倭洋を逐
斥するの目的を實行するに至らんも測るべからず、
韓廷或は日淸に援兵を請はんか、との通信に接
したるは五月二十二日の事なりき、

▣で到れる報道には巨魁崔時孝が羅州、扶安、興
德、高敞、興陽等の人民を歸服せしめ、總勢凡そ
八千餘人、益山の一戰に官軍を擊破し、北ぐるを
逐うて京畿を衝んとすと云ひ、首將鄭夏は地雷火
を以て官軍を湖南に破り、兵器糧餉を奪ひて寶城
に據る、官軍糧食繼がず遂に民家を襲うて錢穀
を强奪せりと云ひ、東徒の猖獗を告ぐるものにあ
らざるなし、我領事は左の告示を爲せり、

目下全羅道に於て東學黨の擾亂有之に付ては此
際當國人に對し獵銃火藥護身用刀劍及び仕込杖
等一切交付せざる樣泩意すべし

右監理通商事務の依賴に據り告示す

明治廿七年五月廿三日 總領事 室田義文

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