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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
大阪朝日新聞 대판조일신문
  • 기사명
    明治27年 12月 16日
  • 이미지
    prd_0136_127 ~ prd_0136_131 (127 ~ 131쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년 11월 20일
일러두기

12月16日
●東學黨討伐
(廣島特派榎本義路發)

左の電報大本營に達したり

嚮に▣▣▣り派遣せし石▣大尉十二月二日江原
道平昌より發せし報告十二月八日受領其要領を
左に擧ぐ

十二月一日平昌に集合せる約三千人の東學黨を
攻擊す東徒射擊を以て抵抗激戰二時間にして漸
次退却の色を顯し午後一時全く平昌を占領す東
徒の大部分は旌善方面に退走せり東徒の死傷捕
虜卽死七十人、負傷未詳、捕虜の後抵抗せしに付
き銃殺十人、我兵死傷なし本日は
此地附近を搜索切除し明日は旌善及び寧越に向
ふ見込なり

右報告候也
明治二十七年十二月八日
セイゼウ守備隊隊長馬屋原少佐
大本營宛

●洪州攻圍詳報(東學黨) 去月十二日龍山を發
せし東學黨征討軍三中隊の西路中隊の一部支隊長
よりの報告は去五日を以て我公使館に達したり左
の如し

報告 (十一月廿九日午前十時於洪州城)
二十五日午後二時東學黨の一群は德山に會し洪州
に向ふて行進するの報を得たり依て小官はト點鷹
峯の嶺上にあり實見するに前方一里の處に行進し
つゝあり故に直に歸城し第二第四分隊を東門より
北門の間に散開し第三第六分隊をイ點氷庫峠に、 第五分隊を北門の左翼に、第七分隊を西門と南門
の中央に散開し第三第六分隊の退却を掩護するを
命じ第一分隊を援隊となし南門の後方三百米突の
處に置き敵の攻擊を待ちつゝあり午後四時敵の密
集隊德山街道高地の陣地を占領し四時二十五分敵
の一隊は直に氷庫峠に向ひ前進し畑地に來たる頃
峠に在る我隊は之れに向ひ一齊射擊をなしたり然
るに敵は暫く躊躇すと雖ども多勢を賴み遂ひに氷
庫峠に前進せり峠の分隊は支ふる能はず退却をな
し第三分隊を西門の右方に、第七分隊を左方に據
らしめ敵の近接するを狙擊せしむ同時第五分隊を
して德山街道高地の密集敵に向ひ一齊射擊をなさ
しむ(巨離八百米突)敵は驚愕二隊に分れ一はロ點
森林に、一はハ點森林高地に據る然るに洪州兵北
門に供ふる砲二發をロ點森林(三百米突)に發火す
敵は散亂ハ點森林に入るに隊相合する時第二分隊
之に一齊射擊をなす敵は一隊を東門の前方約六百
米突へ點の森林に入らしめ徐徐前進し來り民家に
火を放ち烟に紛れ約二百名城外百米突に近接し頻
りに發射す其時第一分隊を東門に增加し我隊又之
に應ず午後七時半銃聲殆んど停む我隊及洪州兵千
人餘周圍の城壁に依り徹夜警戒す

翌二十六日午前六時敵は三面に掩護兵を殘し後方
約千五百米突ト點鷹峯の高地に退却陣地を占領し
居れり午後四時半殘兵を鷹峯に集め(氷庫を除く)
退却をなしたり午後五時氷庫峠の敵海美方面に退
却せり依て搜兵(洪州兵)を敵の方面に出す午後六
時續續負傷者及敵の逃亡者を縛し來り翌廿七日天
明より黃昏に至る迄續續敵の逃亡者及負傷者を縛
し砲五門牛馬數頭を取來り敵は海美に退却するを
報ず故に城壁周圍の我兵を撤し四門に複哨を置き
警戒をなしつゝあり翌二十八日午前十時囚人の內
金載鉉と云ふものを尋問し兵數を問ふに六萬と答
べたり然れども實兵三萬人許りならん敵の死者二
百餘負傷者無數なり午後零時卅分敵の一部隊葛山
(洪州を去る西方三里)に屯集するを聞き追擊の爲
め下士以下四十五名を率ゐ午後一時出發五時葛山
に達す土民の言に依れば同日午前海美に退却をな
したりと云ふ殘黨十名を縛し午後九時歸城せり
偵察と捕虜の言に依れば海美城は敵の根據にして
假令前進し來るも數十人は守備を嚴にせり

二十四日貴館に飛報したれども道路閉塞する爲め 未だ達せざるも計り難し敵は日日猖獗となり一小
隊を以て攻擊するも到底目的を達する能はざる景
況に至れり至急援隊と彈藥韓錢の送附を乞ふ洪州
城は要地なり之を棄つ可からず我一小隊は固守來
援を俟つ敵は巧みに要地を占領し各所に密集した
り故に砲を用えれば容易に擊退するを得(別圖略)

東徒煽動嫌疑者 去三日法務衙門の法廷に於て
韓曆十一月二日夫の或る向の密命を受けて東學黨
を煽動せりとの嫌疑を以て捕縛され爾來繫獄中な
りし前校理宋廷爕の第一回審問を開き內田京城領
事、荻原警部の立會あり未だ裁判決着するに至ら
ざるも同人が○○の密命を蒙ふり居り就縛の數日
前東學黨煽動者として捕縛されたる前校理李容鎬
が如何なる筋よりの使命を受け如何に運動せしか
を同人が知る事丈は確め得られたりと云ふ

討捕使 慶尙道地方の東學黨匪擾尙ほ未だ熄ま
ず政府は特に此地方の賊徒征討の師を出すに決し
仁同府使趙應顯氏を嶺南(慶尙道を云ふ)討捕使と
なし河東府使洪澤厚氏を助防將となし嶺南東學賊
徒の剿討に從はしむることとなせり

沈相薰と東學黨 との間には密接の關係あり沈
が○○の旨を受けて東學黨に加擔し閔泳達、閔泳
韶の輩と共同し由りて以て閔黨の興復を圖らんと
する事實は端なく東學黨煽動者の嫌疑を以て捕縛
審問を受けたる李容鎬、宋廷爕、尹甲炳諸輩の口
に由りて發見し得られたり初め東學黨の聲言せし
所は蓋し閔族政府を倒し大院君の執政せられんこ
とを希望するに在りしなり而して今や閔家の興復
を圖り居る輩が東學黨と密接の關係を有するに至
れるは眞に怪訝に堪へざる事なるも其故なきに非
ず東學黨最初の宣言こそ閔族を倒すにありたれ而
かも是れ彼等の目的に非ず東學黨今日の行迹より
見れば其最大目的は蓋し事大黨政府となし其權勢
を占めんとするにあるなり閔族の倒れて後開化黨
の勢力增加したると同時に○○及閔黨故舊に於て
も殆んど孤立の域界に陷りたる最後の窮策として
之を利用して自家興復の地を作さんとし○○より
親書を得て彼の徒に說く所あり此に於て東學黨が
閔家の餘力を借りて日本黨を排斥し以て其勢力を
逞うせんとする希望と東學黨を利用して自家の 興復を計らんとする閔族の意志とは端なくも相一
致し遂に此不思議の現象を現はすに立至りたるな
れと言ふものあり

政府と東學黨 東學黨の煽動者を以て獨り○○
の旨を受けたる閔族の輩のみとなす勿れ己れ開化
黨を以て自任し新政府の立役者たらんと期して而
して滿足の地位を得ざる輩、井上公使の韓廷改革
の相談相手以外に擯斥せられて勢力の伸びざる輩
公使の攻擊に堪へ兼ねて止むなく引退せざる可ら
ざるに至りし輩等は皆不平を洩す手段として陰に
東學黨の後援たるの形跡あり我某外交官は曰く
世に奇怪事ありとするも韓廷が東學黨の征討を日
本公使に依賴し居りながち亦其一面は東學黨煽動
者たるの事實程奇怪なる現象はあるまじと

黃海道の東學黨 益猖獗の狀況は每每報じ
たる所の如し黃海道平山の府使李昌烈氏の子息の
飴賣の姿に裝ひ潛行探索し一昨日歸京したり今之
に就て聞くに平山附近のものゝみにて總數四萬餘
人、內眞成の東學黨は僅に五百人にして他は皆雷
同者なりと云ふ

討伐成績 忠淸監司より今日總理大臣の許へ電
報し來りし所に據れば去月二十五日以來今日迄洪
州方面のみにて日韓聯合軍が東徒と戰ふて之れを
殺したる數は六百人に及び征討朝鮮官兵の死者は
三十餘名なりとなり

東徒煽動者に關する怪聞 日本領事館裏手倭城
の前に東京丸木寫眞館の支店あり嚮に其小使に一
韓人名を尹甲炳と云ふもの故あり支店より放逐せ
られたり後久しく同人の形見えざりしが今夏新政
府立つの時新に大小官吏の登庸ありしに此尹甲炳
は意外にも宮內主事に任ぜられたるの報時の官報
に現はれぬ而して今より一箇月半程前の事なりき
尹甲炳は又一躍して農商衙門參議に榮轉せり然れ
ども此の不思議は同人が屢次大院君の密書を齎ら
して忠淸道の東學黨巨魁の許に往來せし報酬なり
との說にて全く合點せられたり斯て數十日を經過
したる韓曆十月二十七日に至りて右の尹甲炳は前
校理李容鎬と共に東學黨煽動者の嫌疑にて捕縛せ
られたりとの報官報に現はれ兩名の審問は一回
法務衙門に於て我內田京城領事立會の上開かれた るも其後の審問には常に李容鎬、宋廷爕のみにし
て尹甲炳は如何に成行きけん更に知るものなかり
しが俄然昨今に至り一怪風聞の傳はるあり曰く東
學黨煽動者の嫌疑にて捕縛され居たる尹甲炳は三
四日前獄裏に於て何者にか殘殺されたりと而して
果は右は大院君が尹甲炳の口より其內通の證跡の
發覺せんことを恐れて人をして之れを刺さしめた
るなりとの噂さへ起るに至りぬ事俄かに信じ難し
とするも咄咄一怪事と謂ふべし

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