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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
大阪朝日新聞 대판조일신문
  • 기사명
    明治27年 11月 21日
  • 이미지
    prd_0136_109 ~ prd_0136_112 (109 ~ 112쪽) 이미지
  • 날짜
    음력 1894년 10월 24일
일러두기

11月21日

京城の▣▣として▣▣兵▣▣隊の屯在し居れるが
是日日無事に苦むものゝ如く時時野外に出でゝ演
習を爲すを見たり但しこの▣▣隊の一部は頃日東
學黨鎭定の命を受けて韓兵と共に忠州地方へ派遣
したり

●仁川特報 靑山好惠

東學黨征討軍 忠淸道の東學黨頃日に至り忠州
淸州、槐山地方を主とし全羅忠淸所在各地に於て
益凶暴を極め我兵▣▣隊同地方に在るも目下其
人員に於て僅かに敵の襲擊を禦ぐに足るのみなり
との電報續續其筋に達するを以て井上公使は伊藤
▣▣▣▣監と相談の上遂に新に征討兵▣▣隊を出
すことに決し卽ち第▣▣▣隊兵▣▣隊は其命を受
け南少佐の統督にて愈今早朝龍山津を發し三道
より南下せんとし▣▣隊は西路を取り水原、天安、
公州を經て全州街道左右各驛殊に恩津、礪山、咸
悅、扶安、金溝、萬頃、古阜、興德地方を嚴に搜索し
つゝ進行し尙進んで靈光、長城を經て南原に出で
▣▣を中心として左右各地に屯集せる東徒を征討
すべく▣▣隊は中路を取り龍仁、竹山、淸州を經て
星州街道を左右各驛特に淸安、朝恩、靑山各地を嚴
密に搜索しつゝ進行すべく▣▣隊は東路卽ち京釜
間兵站路を取り可興、忠州、聞慶、洛東を經て大邱
府に進み右は陰城、槐山、左は原州、淸風を搜索す
べし其目的方法は大略左の如きものなる由に漏れ
聞きぬ

一各隊は已に出征し或は今後出征する韓兵と協力
し東學黨征討の事に從ひ禍根を斷ち以て再興の
後患を遺さしめざるを要す

一首領と認むるものは縛して之れを京城公使館に
送り其雷同者にして歸順せし者は之れを寬恕し
苛酷の處置に陷るを避くべし

一中央○○○○の有力の筋及有力なる地方○等
と東學黨との○○○○は非常の注意を以て之を
收取するを務むべし

一這般東學黨鎭定の爲め前後派出せし韓兵の進退
調度は一に日本軍隊の指揮に從ひ日本軍律に依
て支配さるべきものなること其筋より韓兵各隊
長に通知したるを以て日本士官は其積りにて韓 兵を指揮すべし

要するに今回は各隊互に氣脈を通じ斷然たる處置
をなし○○道に集り復命を竢つの手筈なりと云ふ
朝鮮政府は各中隊に鎭撫使二名內務官吏二名を附
隨せしむ鎭撫使は各地に於て監司府使を督し東學
の徒に順逆を說き利害を諭し反省歸順せしむる爲
め、內務官吏は各○隊に隨行し日本軍隊の糧食軍
需品人馬の宿舍其他の周旋をなさしめん爲なりと
而して朝鮮政府は此事に關し沿道各地方官に傳訓
する所あり左の關文は聞慶縣監へ與へたるものゝ
寫なりと

外務衙門

相考事、照得、現接日本公館東南內爲開因、剿辨
東學匪徒事、宜前後承貴政府有相、請現已▣定分
調、今明日內、應抵仁港之我兵隊、一路經過水原
公州前進、全羅道一路經過龍仁淸州、前進慶尙道、
行討沿道匪徒、軍貴政府、亦同接選派兵丁萬千
名、彼此相爲協助、以期先捷▣功、凡係預先準備
事、宜務連辨理可矣等、因准此査、此次日兵之南
下、寔爲我代行出力也、其在爲主之地、務接應之
道、凡屬買備軍需糧餉之物、及其召募人馬、以至
豫備住宿房舍等諸項細務、竭力周旋、無至難乏雖
於各邑、上納公穀公錢中、先執榔用、從後計報京
司、隨宜設略以便支應、使軍行無滯、外援有恃、宜
當合行移關、請
照驗旋行、須至▣者

右 關

聞慶縣監

大朝鮮開國五百三年十月十二日

大臣 花押

亦兩湖(忠淸全羅慶尙三道)巡撫營より東學黨征討
韓軍が日本士官の指揮を受け其軍規に從ふべき旨
の左の傳令を各地兵使及出征軍隊に下したり

傳令

此次勛剿事、日本陸軍中尉白木誠太郞、少尉宮本
竹太郞、由各路進行、日本軍隊士官、今方發行協
力、合度期爲不日奏功是矣、凡進調度之節、一聽
該士官指揮、無失機會、爲彌如有不遵命、令怯退
逃避者、斷以軍律、毋或一毫疎虞之地、宜當者

大朝鮮開國五百三年十月十二日

兩湖巡撫營

而して我東學黨征討軍各隊は東學黨の○○○○二
道方面に逃遁するを防止する筈の由にて是れ伊藤
仁川○○○○官及井上公使が深き注意より出でた
るものにして全く東學黨敗兵が○○より○境に逃
げ行き他日の患をなさんことを豫防せんが爲なりと
我兵○○隊は此くの如くして今朝を以て東學黨征
討の途に上ぼれり速に勦滅の效を收むるや復疑
ひを容れざるなり

東學黨狀 正確探討せし處に據るに東學黨の總
根據地は全羅道の南原金溝兩地なるが如く今日迄
に東學黨の爲めに殺されし地方官は泰安府使、礪
山府使、鎭川府使、唐津縣監等にして捕はれたるは
恩津縣監なり又驪州府使李載九は○○○の○○に
して東學黨類の疑ひもあり今回○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○筈なりと

東學黨の首領 と目せらるゝものは左の如し

忠淸道の首領 崔時亨 任箕準

崔時亨は朝恩に住し崔法憲と稱せらる東學敎義
の首魁なり他の各地の首領皆同人を以て全首領
と仰げり

任箕準は公州に住し勢力强く忠淸監司朴齊純の
如きは之れを如何ともする能はずと云ふ

全羅道の首領 全祿斗 孫河牛

全祿斗は亦全叔明と稱し東學黨中の暴徒の大巨
魁なり全州に在住せるが其勢力全州監司を壓す

全羅道より慶尙道に入りて首領となりし者は金溝
の人全介男、益山の人全商奎の二人なり

密旨を奉じたりと稱して煽動する者は黃都事、李
校理の二人なり

單に首領と稱せらるゝ者は金箕範、崔慶善、全鳳俊、
徐邇迺(今京城に潛在せる噂あり)の四人なり

以上の首領の外に執綱望と稱せらるゝ小首領は張
俊煥(公州)崔鳩基(燕岐)朴泳來(連山)任基俊(全
義)廉相元(恩津)等四十四名なり忠淸監司朴齊純
は先般○○○より其腹心朴準陽(朴齊純の從弟)を
介州地方の東學黨に使ひせしめたる時より東學黨
に○○せるやの由

朝鮮の征討軍 江華沁營の兵二百六十が東學黨
征伐の爲め去八日夜江華島より仁川に出で來りし
に糧食彈藥の供給なき爲め進發出來ざりし慘狀は
旣に報じ置きたるが仁川○○○○官中佐伊藤祐義
氏と江華兵の大將黃憲周氏との對話記は更に能く
其眞相を知るに足るものあり卽ち伊藤中佐は九日
の朝黃憲周を訪問したる節兩者對話の略筆記は左
の如し

(伊藤中佐問)貴官は東學黨征伐の爲め兵を引き
來られたりと此れより何處に向はんとするや

(黃憲周答) 牙山灣の內島より上陸する考なり

(問)何時頃發向せらるゝや (答)小官は目下病
氣にもあり且つ余の率ゐ來りし兵は極めて不完
全のものにして服も夏服の水兵服を借着し彈藥
の如き殆んど皆無の姿なり聞く東學黨其數二十
萬に及び且つ今夏官兵出征の際其の銃皆東徒の
爲に奪はれたるが彼等は皆其の銃を携帶し居る
由故定めて强かるべしと思はる斯かる處に向ふ
は如何にやと氣遣はる (問)貴官の率ゐられた る軍隊は幾何の糧食を豫備せらるゝや (答)我
兵江華を出立する時に米五百俵と錢五百貫を持
ち來りしのみ到底進軍は出來ぬ故軍務大臣に伺
ひを立てたる處糧食が乏しけれは東學黨各地
の官稟を奪ひ米を取り居れるに付き其れを取戾
して兵を給養せよとの亂暴なる司令を蒙ぶり實
に困り入る誠に恥ぢ入りたる次第なり云云

大將黃憲周の言此の如し又伊藤中佐の談話に曰
く余が見る所を以てすれば同人の大に我日本兵に
待あるや明瞭にして何卒日本兵と同道さしてくれ
よと云ぬばかりの有樣なり到底我兵にては東學黨
は伐てぬと觀念し居るが如く彼の病氣も前進を遲
くする爲め殊更に作病せしものならんとの疑もあ
り然れども黃の人物は中等以上の人なり韓人は病
氣の時は決して客に見えぬものなるに自分の訪問
せし時病を努めて寢所に於て迎接し其談論の如き
言言肺腑の中より出づ心よりして家國の爲に東學
黨を憂へ居るものゝ如くなりき聞く此人は日本黨
中の一人なりとぞ彼れの率ゐ居る兵を見るに或は
マリチニー銃或はモーゼル銃等種種雜多の銃を持
てり到底一も爲すなきの兵なり斯る弱兵を率ゐ敗
軍を承知しつゝ飢ゑたる腹をかゝへ乍ら進軍せざ
る可らざるこそ氣の毒なれと(以上十二日發)

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